東証の歴史博士!石田さんと学ぶきんゆうの歴史♡第7回目レポート(横浜開港編)

大河ドラマ、「青天を衝け」が始まりましたね。

ドラマ云々、大河ドラマもあまり見ない人ですが、吉沢亮さんが大人っぽくなられてかっこいいな〜と色めきたっているSayasayanです。(歴史の偉人は美化されがちなので、そのあたりもさっぴきながら視聴しつつ。)

いずれにせよ、兜町・茅場町界隈が注目されている模様。

茅場町界隈にはぺんてるや花王など名だたる企業さんが沢山あるし、何より東京証券取引所もありますので投資家にとっては気になるところ、ではないでしょうか。

そんな中で、東証の歴史博士石田さんから学ぶきんゆう女子。のきんゆうを学ぶ女子会も第7回目を数えることとなりました。

ちょうどドラマとリンクしてくる、今回は横浜開港からの日本の近代金融システム(=銀行業務特に為替)の必要性が出てきたお話

幕末と時代に新しくできた横浜という街と当時の金融事情についてまとめてみました。

みなさんのご参考になれば幸いです。

横浜開港と海外勢のもくろみ

生糸の原料調達地として注目されていた日本

さて、時代は江戸と大阪の商人が日本国内の経済圏を一手に引き受けていた江戸時代から、激動の幕末へ。

いわゆるペリーが艦隊を率いてやってきたところから大きく歴史が動いていくことになります。

当時の日本というのは、諸外国からみると、生糸の原材料供給地として魅力的だったのだとか。(これは開国の一つの理由であったかも?)

太平天国の乱で荒れていて綿織物工業のために必要な綿花の供給地として中国が機能していなかったため、その代替地としてきらめいてみえていたようです。(のちの消費する地としても期待感があったのかもですね。新興国株投資みたいなものでしょうか(笑))

そんなこんなで、開国の運びとなり、横浜など今まで開かれていなかった地が港湾都市として国際的な場所、新たな商業圏を形成することになります。

今でこそ横浜は大都会のイメージですが、当時は小さな漁村だったそうです。

とにかく、大阪を中心に江戸くらいしか主な経済圏や金融システムが機能していた場所がなかった日本に、そういった海外の人たちを相手とする商人たちが集ってくるので、相当活気があったようですね。

ただし、どんな国かもよく分からない日本にやってくる海外の商人たちも、得体の知れない外国人と取引しようという日本の商人たちもどちらも一旗あげてやろうといったリスクテイカーたちばかりだったそうで、かなり強引な取引なんかがあったそう・・・

中にはメキシコ銀を持ち込み、当時銀より金の価値が低かった日本の金貨と両替をして、さらにその金貨を海外で銀に替えることで利益を得た外国人もいたそうです!

この取引は日本の経済システムの穴をつかれちゃったみたいなところもあり、政府も対応が後手に回ってしまったそうで、かなり日本人からみて外国人の印象は悪かったようです。

命運が分かれる日本国内の商人たち

リスクをとったものが成功したり失敗したり・・・

(横浜商館で生糸の検査がされていた部屋)

では、日本人の商人は真っ当だったかといえば、それもまた違ったみたいです。

当時、外国人たちの目当ては日本の生糸だったわけですが、信頼のない外国人の生糸を売りたいという人たちはいないわけですよね。

だいたい大柄な外国人は普通に怖いし(笑)

その間をとりもったのは、当時すでに銀行機能を持ち合わせていた大店の商人たち・・・ではなく、怖いもの知らずのならず者たちだったとのこと。(その中での生き残りが田中平八や今村清之助といった人。)

おまけに外国人たちもはるばる日本まで買い付けに来ているので、生糸は持って帰らないといけないわ、でも法外な値段で買うわけにもいかないわで、(日本人も簡単には売ってやるか〜という状態なので)生糸の取引はかなり殺伐とした情報戦だったようです。

この仲介役なわけですから、良くも悪くも日本の商人たちも口八丁手八丁な人が多かったみたいです。

当時の日本の商人たちは嘘をついたりもして、外国人から資金を調達して生糸の生産者から生糸を受け取り、外国人たちに売ることをしていたので、外国での日本の評判も悪かったとのことでした。

かなり犬猿の仲状態だったとのことで、なかなか興味深かったです。

それもこれも、こうした国際化した舞台で活躍?したのが、従来活躍していた人たちではなかったからというのは大きかったようですね。

交通や金融のインフラが急速に整う幕末

情報を制する女性が投資をする時代へ

そういう(これまで利を得ていた者が得られなくなり、新興のリスクをとった者が豊かになることを含む)激動の時代、多数の女工を労働力として駆り出す一方、急速に機械化が進んだり、これまで横浜まで生糸を運ぶルートはなかったけれど、長野→八王子→横浜の日本のシルクロードといった交通インフラが整ったりしたのが幕末だったということで、現在に通じるものがあるのかな?と思いました。

何より、安心安全な取引のための経済インフラが必要だったわけで、横浜に銀行が必要だという話にもなっていったとのこと。(とはいえ、激動の時代の中で大店の商人は横浜進出はあまり快く思わなかったし弱体化もしてたらしく・・・(この辺もうちょっと詳しく聞きたかったかな・・・))当時活躍していた成り上がり商人たちがみんなでお金を出して銀行を作ろうという流れになっていったそうです。

結局物事が進むのは現場からといったことでしょうかね。

とにかく、実際に現物商品を運んで取引するのもリスク(荷為替リスク)があるし、特に海外相手の売買となるので、為替機能は早急に整える必要があり、銀行が作られていくことになったとのこと。

そして、横浜などで活躍した人たちが東京にやってきて拠点としたのが日本橋兜町・茅場町とのことで、当時は横浜から成り上がった者たち=横浜組などと言って揶揄されていたんですって。

今とはだいぶ雰囲気が違う・・・?いや、今も昔も一緒・・・?、いつの時代も成功者はたたかれたりするものですね。

というわけで、急速な発展とともに、横浜の遊郭ではお金の話で盛り上がる・・・なんてこともあったそうです。

そして、遊郭での情報を仕入れた女性や華族の子女たちなどは株式投資をして一財産を築くなんてこともったとのこと!

詳しくはプレ女子会のレポートからどうぞ。

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ちなみに、遊郭は明治時代に人身売買etc.といったことが違法とされました。

今ほどの職業選択の自由があったわけではなかったにせよ、建前上は遊女のみなさんなどはその職業を選んでいたということみたいです。

いずれにせよ、情報を制する者こそ勝者となるのは近代以降の必勝ポイントのようですね。

横浜は、城下町などに比べれば新しいゆえに、老舗和菓子店がないといったお話やプロ同士のやりとりを担ったのがサイトリさんと呼ばれる人たちだったことなど興味深いお話が聞けました。

歴史のお勉強会もいよいよ残り3回。

渋沢栄一その人にどんどん近づいてまいりました、続きもとっても気になる横浜開港編でした。

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