さて、かねてよりSayasayanが気になっていることがあります。
それは、「お金稼ぎが悪」といったような考え方がなぜ日本において根強いのか?ということ。
Twitterでもちょっと聞いてまわりましたが、なんとなくいまだにしっくりこないのでずっと考え中です。
もちろん、考えているだけでは分からないことばかりですので、少しずつですが、Twitterの叡智から寄せられたアドバイスやヒントをもとに、お遊び半分で調べてみることにしました。
最近、お金💴の歴史について勉強しているのですが、いわゆる「お金稼ぎは悪いこと」みたいな精神性ってどのあたりから出てきているのでしょうかね?🤔
やはり士農工商の江戸時代あたりなのでしょうか…?稼ぐことは質素倹約とはまた別物でもあるし…うーん…
誰かご存知の方いませんか〜🥺
— Sayasayan (@Sayasay45057414) September 23, 2020
一番多かった意見が儒教の影響とのことでした。
確かに日本は儒教の影響が強くて、江戸時代でも儒学者がご意見番でもありましたので関係は少なくなさそうですね。
渋沢栄一さんの『論語と算盤』も興味深いよ、とご助言いただいたのでまずはこの2冊から。
ご興味のある方に読んでいただければ幸いです。
渋沢栄一述『論語と算盤』の儒教観
朱子に解説よりも孔子が述べた言行録に寄り添う内容
今回、私が読んだのは論語と算盤 (角川ソフィア文庫)です。
現代語訳版なども出ているのですが、こちらの方が渋沢栄一さんの言葉の息吹が分かるといった声があったのでこちらにしてみました。
ちょっと古めかしい言葉もありますが、読書習慣のある方あんらば読むのが苦痛といったレベルではないと思います。
さて、この書籍の中で渋沢栄一さんが言いたいことは、基本的に実業家という存在がどうあるべきか?ということで、実業家こそ公共性をもって物事をなすべきという理念を説いているといえます。
冒頭の頃に生い立ちとして「賎しむべき金銭に目がくらんで官を去って商人になるとは実に呆れる」と言われつつ、実業の道に進んだことに触れている通り、彼が自分の理想を追求したということと、すでにこの頃には一般的に金銭が賤しいものっていう考え方はあったようですね。
渋沢さん自身は、それでもお金の力というのを軽視しているわけでなく、その効能が大きいからこそ、個人の利にはしるべからずといったことを強調しているようです。
「如何に多く財を費やしても、唐辛子を甘くすることはできないけれども、(財によって得られた)無限の砂糖をもってその辛味を消すことはできる」by 渋沢栄一(『論語と算盤』より)
秋の夜長の読書中に出会ったパワーワード🤗お金大事(笑)
でも、今の技術なら唐辛子を甘くすることも?(違う💦)— Sayasayan (@Sayasay45057414) October 6, 2020
なお、渋沢栄一さんが理想とする儒教の考え方は、江戸時代に日本でも特に勉強された朱子の注釈が入った朱子学ではなく、孔子がもともと述べた原始的な考え方とのこと。
孔子の弟子筋である孟子は、「富をなさば仁ならず、仁をなさば富まず」という言葉を残しているのですが、これは社会制度的に上流階級の士大夫(役人)が利殖と関係せずに人格の低いものがこれにあたるといった体制になってしまったためとしていて、やはり古代中国でもかなり以前からお金の扱いは悪しきことというのがなんとなくあったようです。
孔子の言行録『論語』には何が書いてある?
教養人と知識人の違いとお金との向き合い方
いよいよ、渋沢栄一さんも影響を受けたという『論語』の確信部分へ・・・。
そうはいっても原典を読むのも時間がかかりますし、注釈も全部読むわけにはいかないので、あんちょこですが翻訳版でご勘弁を。
論語もいろんな翻訳が出ていますが、とりあえず今回は論語 増補版 (講談社学術文庫)を参照してみました。
訳本には翻訳者の意図も入りやすいものですが、比較的平易にわかりやすく訳されていますし、原文も書き下し文もついているのでとても便利です。
さて、お金の話の前に、孔子も基本的には人の上に立つ存在とはどうあるべきか?という理念を語っている点では渋沢栄一さんの語っていたことと共通です。
しかしながら、人の上に立つべくして知識を極めた者は多くても、知識をひけらかすだけの知識人でとどまり、人格を兼ね備えた人はごく少数。
本来は、真の人格者として教養人を目指すべき(その結果、お金がついてこないこともあろうが不平不満を言わないのが教養人である)としています。
その意味では、お金稼ぎに関する記述そのものはほとんどなくて、清貧にしても重要なことは別のところにあるからと弟子たちを諭す場面が多いようですね。
最近はYouTubeでそういった講義があったりするみたいなので、YouTuebeで見たい方はこちらをどうぞ。
あとは仏教の中庸の精神のように、お金関係についてはバランスをとるように考えている節が多く散見されます。
以下簡単に抜粋。
「利害打算だけで行動すると他者から怨まれることが多くなる」(里仁第四の十二)
「教養人は相手が急場のときには手厚く援助し、豊かであるときにはわざわざ継ぎ足すようなことはしないものだ」(雍也第六の四)
「驕り奢ぶると不遜となる。倹約すぎると固陋になる。不遜であるよりは固陋の方がましである。」(まぁどちちもよろしくはないってことですね。)(述而第七の三十五)
個人的に興味深かったのは、以下の文言です。
「国に人の道が行われているときに、(退いて暮らしていて)貧賤であるのは恥である。(逆に)国に人の道が行われていない危邦・乱邦であるとき、[無道に乗じて]富貴であるのは恥である。」(泰伯第八の十三)
今の日本を人の道が行われている国かどうか?と考えるのは人それぞれかもしれませんが、暴虐な君主が専制政治を行うような国ではなし、古代中国に比較して圧倒的に豊かになっていることを考えると、ただただ貧賤であるのは恥じるべきことなのかもしれませんね。
おまけ:儒教の宗教性について学ぶなら?
道徳性ばかりが注目されますが、儒教の本質はその宗教性にあり!?
今回、『論語と算盤』・日本語訳ですが『論語』を読んでみて、解説や訳注に加地伸行先生のお名前がありました。
期せずしてといった感じなのですが、どこかで見かけたことがあるお名前・・・と思っていてこれに行き当たりました。
実は儒教というのは宗教にあらずと申しますか、道徳規範的な側面がすごく強調されることが多い考え方なのですよね。
倫理的な観点から論じられることが多くて、それは宗教を構成する一部ではもちろんあるのだけれど、じゃあなんで宗教っていうの?という話でもあり・・・そんな疑問に答えてくれる儒教の宗教性を論じた内容になっています。
最後にまとめです。
- 日本の思想には儒教の影響は色濃くありそう。(渋沢栄一さんも影響を受けている。)
- ただし、人の上に立つ人に向けた内容であって、「お金稼ぎが悪」という発想は儒教成立以前より根深くありそう。
- 論語にもいろいろ語られているが、お金に振り回されずにバランスよく生きることが大事。
- しいていうなら、乱れた世で手を汚してまで稼ぐのはもってのほかだが、未来ある国のためであればしっかり仕事をして貧賤であってはならないと孔子も言っている。
Twitterでの後押しなくして、私が『論語』を読むこともなかった(なんとなく経営者の人とかが読むもので特に男性の方が好きそうというめちゃくちゃな偏見に基づく)わけですが、結果大変勉強になりました。
ついつい、偏見で読まず嫌いなんてものも発生するわけですが、女性でも役立つ視点がいっぱいですし、孔子の言っている内容に、例えば「女性が男性に劣る」とか書いてないので、女性の方も自尊心高く読み進められると思います(笑)。
いずれにせよ、まだまだ個人的自由研究は必要ありそうですが、ひとまずこれにてプチ研究報告を終えたいと思います。
この「お金稼ぎは悪」の精神に関しては、情報収集続行しておりますので、何かお心当たりある方いらっしゃいましたら情報をお寄せください!
Sayasayanが鋭意こそこそと調査しますので、どうぞよろしくお願いします(笑)。